南高梅ものがたり

むかしむかし和歌山県南部川村は、耕地の少ない不便な丘陵地帯で、たいそう貧しい村でした。梅の木はというと荒れ地や笹原の中で花を咲かせるくらいで、質の良い実がなるというものではなく、やぶ梅と呼ばれていました。村の人々は、馬に荷物を乗せて町を往復する駄賃持ちという仕事と、やせた土地でのわずかな畑仕事で生活していました。紺屋(そめもの屋)の家にうまれた内中源蔵さんは「みんなの暮らしが少しでも楽になる方法はないものか」といつも考えておりました。>

源蔵さんの親戚に内本幸右エ門さんという人がいました。幸右エ門さんは百分の家の畑をせっせと梅畑に変えていました。そんな姿を村人たちは「梅畑なんか作ってどうしようというんだ。ばかなことをしている」と、いつもかげ口を言っていました。見兼ねた源蔵さんのお父さんが幸右エ門さんに「せっかくの畑を梅畑なんかにせず、みんなと一緒に駄賃持ちでもしたらどうや」と言うと、幸右エ門さんは「この村が栄えるためには何かをしなければと思うて、ワシは梅畑を作ってるんや。

ワシが植えているこの梅は、ここら辺のやぶ梅とはちがうんやで。ええ実のなる梅の木なんや。この村に一番適している梅を作っていけば村はきっと栄えると信じとる。」幸右エ門さんとお父さんの話しを聞いていた源蔵さんは「お父さん、おじさんの言う通りや。此村を豊かにするには梅作りしかないと思うわ。ぼくも梅の勉強するさかいおじさんと一緒に梅畑をつくらんかい?」こうして3人の梅畑づくりがはじまりました。

源蔵さんが32歳になった時、日清戦争がはじまりました。梅干しは、戦場ではなくてはならない食べ物としてどんどん売れるようになり、源蔵さんたちは大変忙しくなってきました。梅がこの村を豊かにするという考えはまちがっていなかったのです。もっともっと山を切り開いてたくさんの梅を作らなくてはと源蔵さんは思いました。お父さんに相談してそれまでやっていた紺屋の商売をやめ、あるだけのお金を集めて熊岡の原山を買い取りました。そして、友だちを集めて熱心に梅づくりの話しをし、梅畑づくりの手伝いを頼みました。

開墾した畑には、その数年前に内木徳松さんが発見した優良品種の母樹から苗木をとって一本一本植え付けていき、品質の向上にも努力を惜しみませんでした。
ちょうとその頃、晩稲の高田貞楠さん(当時17歳)も源蔵さんの成功を見習って桑畑を梅畑にし、源蔵さんの「内中梅」の未苗木60本を買って植えました。やがてこの60本の内の1本の木が大きくなるにつれ、たくさんの大粒の実がなるようになりました。それは美しい紅のかかった見事な梅の実でした。貞楠さんはこの木をこどものように大事に大事に育てました。

時代は大正から昭和に変わる頃、農業経営、特に柑橘栽培の研究をしていた、南部川村筋の小山貞一さんが、貞楠さんの育てている梅の木のことを知り、その穂木を分けてほしいとたのみにきました。貞一さんの梅づくりに対する熱い思いを感じた貞楠さんは母樹から60本の穂木を差し出しました。貞一さんはこの梅を「高田梅」と名付け大切に育てていきました。そうして3年後には大粒で収穫量の多い優良な木となっていきました。

昭和26年、南部川村の農業協同組合長の提案で、南部郷に適した優良母樹を見つけようと調査選定委員会がつくられました。委員長に南部高校園芸科教諭の竹中さん、そして委員に小山貞一さんも加わりました。南部高校の生徒たちも参加して調査選定がすすめられ、5年後には、貞一さんの「高田梅」が最も優良であると選ばれました。それは貞一さんが梅づくりをはじめて25年たった時です。その後、国立園芸試験場の梶浦博士の指導を受けながらますます品質は改良され質、量ともに最高級の梅ができるようになりました。

昭和40年、南部高校の竹中先生から貞一さんに「南部高校の生徒たちも調査研究に努力したこともあって、高田梅を”南高梅”と名付けたい」との話しがありました。貞一さんは「南高」という名前は「南部の高田梅」の頭文字をとって「南高」、南部高校の梅としても「南高」となることから、これなら高田貞楠さんも納得してくれるだろうと確信しました。貞楠さんは名前の変更を心よく承諾してくれ、昭和40年10月29日に登録第184号、うめ、「南高」の名称登録証が認可されました。
大粒で皮がうすく、たっぷりの果肉がつまった南高梅はこうして誕生しました。